鄭和という人物

2005年9月1日
 何かの縁で行動を共にした際に「お名前何て読むのですか?」と聞かれる事がたまにあります。
 もちろん「ていわ、です」とお答えする訳ですが、相手が大抵驚かれるのは「鄭和」という名前がIMEで一発変換される事です。
 鄭和という人物は、歴史ファンの間では結構著名です。ただ、三国志の登場人物のように、歴史ファンでない人でも知っている程一般化してはいないのも事実。しかし、歴史上における重要度では決してひけを取らない人です。
 という訳で、本日のブログは私がキャラ名としている鄭和について、ちょっと紹介してみようと思います。歴史の勉強が嫌いな人には退屈かもしれませんが、ご容赦の程を。

 鄭和は15世紀前半の中国、明代初期に活躍した人です。当時の日本は室町時代で、一休さんで有名な足利義満の頃ですね。
 何をした人物かといえば、所謂「鄭和の大航海」と呼ばれる大遠征を行い、中国から最長で東アフリカのモガディシオまで都合7回往復しました。しかし何よりも凄いのは、その航海の規模です。鄭和の率いた艦隊は数百隻にのぼり、しかもそのどれもが巨船。人員総数は数万人に達するものでした。良く比較されるコロンブスやガマの艦隊規模が100人弱であるのに対し、その凄さが際立つと思います。
 こういう数字を見ると、歴史書にありがちな誇張表現だと思われそうですが、鄭和艦隊の規模については考古学的にもそれを証明する有力な発見などがなされており、ほぼ事実通りであるとされています。1都市にも匹敵する人数を、海という過酷な条件下で率い、任務を完遂した鄭和の統率力は、過去の偉大な将軍達にも決して劣るものではなく、むしろトップクラスであるとさえ言えるのではないでしょうか。
 鄭和がこのような大航海を行った理由は諸説ありますが、一番ポピュラーなのは「明国の威光を諸国に知らしめる為」というものです。実は古代・中世の中国には建前上外交というものが存在しませんでした。

 「中国以外は全て蛮夷であり、唯一中国のみが文明世界であり、それが為に中国には蛮族達に文明の何たるかを教える義務がある。当然対等の立場で行う外交などというものは有り得ず、諸蛮族とは「文明の恵みを垂れる」という形でしか関係性を持たない・・・」

 こういう考え方を中華思想と呼ぶのですけども、鄭和の遠征もこの考えの延長線上にあった、とするものです。
 ただ実際には、鄭和の遠征にも政治的、経済的な意味合いは含まれていた筈です。事実、立ち寄った国々に色んな形で影響を与えています。内乱に介入したり、技術交流を行ったり、貴重品の取引を行ったり様々です。他にも色々説はありますし、一様な語り方は難しいでしょうね。
 ともあれ鄭和の大航海は、ヨーロッパの大航海時代に1世紀先駆けて行われた大変な偉業でありました。

 また鄭和は宦官でもありました。宦官とは何か、についてはこれも語り出すと長くなるので割愛します。ググってみればすぐ参照出来ますのでそちらをご覧下さい。
 宦官というと三国志の十常侍が有名で、あまり良いイメージを持たれてはいません。皇帝に取り入って策略をめぐらし、私腹を肥やす悪い連中、というのが講談での役どころです。
 ただ宦官にも色々いまして、鄭和の他にも、紙の発明者である蔡倫や史記を著した司馬遷など、大きな仕事をした人も結構います。鄭和自身は不幸な運命のいたずらで宦官となってしまったのですが、それがきっかけで皇帝に近づく事が出来、その才能を認められるようになった訳ですから、何が功を奏するか分からないものです。
 
 とまあ、これが鄭和という人物の非常に簡単な紹介です。私のようなチンケな海賊などでは勿論なく、偉大な提督、偉大なリーダーでした。
 アジア圏が実装されたりしたら、彼にまつわるクエとかが出たりしないかなあ、と期待するんですけどもどうでしょうね?

●本日の掘り出し物
 サルミエント商会紋章

●本日の明日への糧となる激励の言葉
 「・・・お前下手よね」

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